少佐、誉れは崎にて散る(陸軍少佐 福井寛君之碑)
令和2年12月1日。
12/1は、東京水道の日です。
1898(明治31)年12月1日に、東京・西新宿にあった淀橋浄水場から神田・日本橋地区に給水が開始されたことにちなんで、東京都水道局が記念日に制定しました。
今こうして水を当たり前に使えているのも、水道を整備し、守っている方々がいるからなんですよね、改めて感謝です。
TOPIC No.125
「陸軍少佐 福井寛君之碑」
今は平和でゆったりとした時間の流れる大島ですが、昭和の太平洋戦戦争下の日本においては、ここ伊豆大島もアメリカの上陸に備え、物々しい空気に包まれたようです。
島民も動員して海岸から三原山中までトーチカを含む陣地や防空壕、飛行場(現・大島空港)が建設されたり、防空監視の拠点ともなったんだとか。
(南関東の都市が夜間空襲を受けて炎上すると、伊豆大島からも空が赤く見えたらしいです…)
また、終戦間際の1945年6月には本土決戦に備えて第321師団が配備されました。
ここまで、太平洋戦争を通した伊豆大島をざっとさらいましたが、
この「福井 寛 陸軍少佐」は、部隊の引き上げに際し陣頭指揮をとった人物。
全ての業務を終えたあとに、行方が分からなくなり…
懸命の捜索虚しく、自ら命を絶った姿で見つかる。
といった悲しい最後です。
「君は国を愛し 人を愛した 吾等は 君を愛する」
何て力強くて儚いメッセージでしょうか。
当時の大島のことも、当時の福井陸軍少佐のことも微塵も知らないのに。
この一文だけで彼がどんなに一生懸命で他人想いだったか、周りから愛される人だったかがうかがい知れます。
太平洋戦争終戦と同時に駐留部隊の引き上げが始まり、その中心になって指揮をとったのが、福井寛参謀であった。10月中旬、アメリカ海軍が上陸し、武器弾薬の引渡しが始まった。福井参謀は連日不眠不休で陣頭指揮をとり、11月5日すべての業務の完了を果たし、久しぶりに笑顔を見せていたという。ところが、翌日夕刻、参謀の姿が見えないことから捜索が開始されたが、夜半の降雨のために一旦中止し、7日朝から矢崎勘十中将自ら先頭にたって捜索した。福井参謀は、三原山を背後に遥か富士山を仰ぐ大島の景勝地、乳が崎で愛用の拳銃で右コメカミを撃ち、自ら命を絶っていた。第51期生として士官学校を卒業し、その後、参謀本部幕僚教育を修了している生粋の軍人である。
良い景色です。
夕方だからか、先ほどの碑を読んだからか、なのかはわかりませんが、
風と波の音しか聞こえないこの場所に立つと形容しがたい哀愁がこみ上げてきました。
生きているだけでも十分素敵なことなんだろうな…とごく当たり前ですがそんなことを思い直しました。
私も、福井陸軍少佐のように、責務を全うできるような(死にはせず)、
人を愛し、人から愛されるような人間になりたいなと思いました。
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さて、明日も頑張っていきます。🐟