次男、北の森に鎮座す(波治加麻神社~紹介編~)
令和2年11月10日。
私生活でいろいろ落ち込むことなどあり、ブログがまたまた止まってしまいました。
春や夏の頃のエネルギッシュな自分はどこいった!!ってかんじです。
なかなかTOPIC探しに行く時間も取れなかったのですが、また徐々に再開したいと思います。
時間は進ませずに続きの10月13日の記事からといきたいところですが追いつかないもんですから11月10日からで。
歴史のお話。大島生成伝説の一部に触れます。
TOPIC No.116-1
「波治加麻神社~紹介編~」
6月頃に、この大島生成伝説のひとつである、「大宮神社」について紹介しました。
改めてざっとおさらいすると、こんなかんじ。
三嶋大明神が伊豆諸島を作り、島々を生成する際、大島に置いた御后様が、羽分の大后(波浮比咩命)。
この2人の間の子が、第一王子の阿治古命と第二王子の波治命。
祀られているのが、以下の3つの神社であると。
波浮比咩命=波浮比咩命神社(波浮港地区)
阿治古命=大宮神社(野増地区)
波治命=波治加麻神社(泉津地区)★今回はここを紹介してます!★
つまり今回はタイトルのとおり、次男が祀られる神社のお話というわけです。
さっそく案内版の内容を書き起こしてお勉強。
波治加麻神社
ここの地名を波治ヶ間と称している。
祭神は波知命、三宅記に言う。「王子二人まします一人を次郎の王子」とあるのはこの波知命であり、元禄元年(一六八八)の棟札に八何間大明神、元禄十三年(一七〇〇)の棟札に波治竈明神と記されている。社殿は昭和に入って建築されたものである。
「三宅記」とは室町時代に書かれたもので著者は不明。大島に関するところでは、大明神が諸龍王に銘じて島々を焼出させ、「一番の島を初めの島(初島)二番の島を神集の島(神津島)三番目の島をば、島大なる故に大島と名付けた。」とある。
また、五人の后の一人を大島に置いた。后の御名は、はぶの大后と申し。その腹に王子二人おわし、一人は太郎の王子大い所と申し、一人は次郎の王子少ない所と申したと言う。ここに出てくる、はぶの大后が波布比咩命神社)、太郎王子(阿治古命)が大宮神社、次郎王子(波治命)が波治加麻神社のそれぞれ祭神として祀られているものである。
平成四年三月
だいたいおさらいのとおりの情報です。
ただ、今に至るまで漢字の表記がころころ変わっている様子。
波治ヶ間・八何間・波治竈・波知加麻・波治加麻…
どれも「はじかま」(または「はちかま」)と読めます。
漢字に込められた意味にも変遷はあるのでしょう。憶測にすぎませんが。
『延喜式』(905年編纂開始)の神名帳に、波浮の波布比咩命神社、野増の阿治古神社(後の大宮神社)と共に波知神社(現在の波治加麻神社)として載っている。
※神名帳は、祭祀を行う対象の神社を一覧表にしたものであり、ここに記載されているということは延喜式の完成時に神社が存在していたことになる。
これ、すっごく面白いことなんです。
伊豆諸島生成の歴史を綴った『三宅記』は成立が室町時代とされていて、
平安時代に編纂が始まった『延喜式』にはすでに、『三宅記』と一致する神様の名前が神社に命名されているのだとか。
ということは、伊豆諸島の生成伝説やその神様への信仰は、少なくとも平安時代には確立されていると言えるのではないでしょうか。
(解釈が違っていたらすみません)
昔話は口頭で伝承されることが多々ありますが、その類なんでしょうか。
それとも公に編纂されていなかっただけで、島の人々の間ではポピュラーな神話だったのでしょうか。
そう想像するだけで興味深いです。
と、目の前に鳥居。
一礼して、奥へと進んでみることにします。
どんな神社なんでしょうか。
次回の記事で。
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さて、明日も頑張っていきます。🐟