義士、悲願の裏に悲運の遺児(赤穂義士遺児 間瀬定八の墓)
令和2年8月30日。
今日もしっかりと晴れて、日光浴日和です。
といいながらも、眠気がとれずに土日はずっと半分ぼけっとした状態で過ごしています。ちゃんと寝てるのですが…
さぁ、今回はひとつ史跡を紹介。
赤穂浪士(義士)の遺児たちのお話。
TOPIC No.102
「赤穂義士遺児 間瀬定八の墓」
まず、赤穂浪士(義士)は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
よくドラマで放映される『忠臣蔵』にて、彼らが登場しますよね。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、主君の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の恥辱をそそぐため、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を討った旧赤穂藩士47名のことを指します。
(※「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称ですので、正確に史実として言うならば「赤穂事件」とするのが正しいようです。)
その討ち入りに参加者には、間瀬久太夫正明と間瀬孫九郎正辰という人物がいました。
久太夫:大石内蔵助とともに重職義士五人のうちの一人であり、藩士たちの行動の理非を糾し取り締まる大目付であった。京都円山会議では、内蔵助に討ち入りを進言し、決意させた人物としても有名である。
孫九郎:久太夫の長男であり、討ち入りが決定した際に、江戸に下り偵察にあたった。
このように親子で参加していたのですね。
今回紹介している、お墓に眠っているのは間瀬定八。
彼は、久太夫の次男であり、つまりは孫九郎の弟にあたる人物です。
では、定八のお墓が何故大島にあるのでしょうか。
敵である吉良上野介義央を討ち取ったあと、虚しくも当然に義士たちは裁かれ、
切腹等でこの世を去ることになりました。
そこで、彼らの家族(遺児たち)は連座の罪にて、
15歳以上の男子は伊豆大島に遠島、
15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、
15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された。
15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)、
彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、
赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったそうです。
島に来て3年後に赦免となるのですが、元々病弱だった定八は既に1年前に病死。
享年22歳。まだまだ若い。なんとも悲運な人生です。
遺児であった間瀬定八が伊豆大島に来て、そして彼の墓だけがあるのは
こうした経緯があったからなんですね。
雑草ひとつ無い綺麗なお墓です。今も島民の方々によって丁寧に管理されているのですね。大島町の史跡にもなっているので、それだけの手入れはしてくださっているのでしょう。歴史を学ぶために史跡を訪れた時、このように綺麗だとなんだか嬉しいですよね。
以上、歴史に翻弄され、悲運な最期を遂げた間瀬定八の墓の紹介でした。
あぁ、大人の事情ってつらいですね…😢
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さて、明日も頑張っていきます。🐟
本日のハロプロソング ― Juice=Juice「大人の事情」