信道、甲斐の虎の威は借らずして(武田信道及び家臣の墓)
令和2年6月21日。
今日は6月第3週の日曜日。
世間では父の日でした。
父親の職にあこがれて就いたこの職業、今も仕事を続ける父の背を追っている最中。
いつか超えたいなと思う今日この頃です。
さて、今回は歴史巡り。伊豆大島は武田家にもゆかりがあるようです。
TOPIC No.58
「武田信道及び家臣の墓」
ここは野増地区の中心地にある墓地です。
一周道路に面しているので、比較的訪れやすい場所でもあります。
島民の利用する一見普通の墓地に、史跡が隠れていました。
墓地の敷地内を向いた案内板。
「武田信道及び家臣の墓」とあります。墓地へ足を踏み入れてみます。
墓地の中心地へと向かう石段を登っていきます。
登り切った道の先でぶつかるのがこのお墓です。
右側には「武田信道及家臣供養塔」と彫られていますね。
では、武田信道とはどのような人物なのか。
武田信道(たけだ のぶみち 1574年 - 1643年)
戦国時代から江戸時代初期の人物。高家武田家の実質的初代当主。
つまり彼は武田信玄の孫ですね。
1582年に武田家は滅亡を迎えるのですが、信道は甲府の長延寺にて出家をします。
その後、武田信玄に仕えた大久保長安(このときはすでに武田家→徳川家の家臣)
に守られることになります。
莫大な富を築いていきました。
しかしその長安本人は1613年に病死。
すると信頼関係にあったはずの徳川は態度を翻したのです。
長安の葬儀の中止、莫大な遺産の没収、遺子7名の切腹そして親類縁者の改易と
数々の仕打ちを長安の身の回り周辺に行っていったわけです。
こうした激動の時代の中で、1615年には伊豆大島に流されることとなりました。
その結果、居を構えたのがここ野増地区であり、そこで生涯を終えた…
というのが歴史的なお話。
このお墓を含む史跡の説明は以下の東京都教育委員会の説明に頼ることにします。
(ホームページいつも参考になります。ありがとうございます。)
武田信玄の孫、信道夫妻とその子信正は、元和元年、先に処罰された甲州代官大久保長安に関連有りとされ、連座の罪で大島に流された。信道夫妻は家臣9名を伴い野増に居住した。屋敷跡は、約21坪の地に石垣を巡らし、中に小祠2つを奉安している。信道は寛永20(1643)年に大島で没し、信正は寛文3(1663)年に赦されて、48年目に一族と共に内地に帰った。信道夫妻、同行した9名の家臣のうち5名は大島で没した。野増墓地には信道夫妻と家臣5名の供養塔があり、屋敷跡は供養塔から元町へ少し移動した場所にある。昭和31(1956)年に武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡として東京都の史跡に指定されている。
東京都教育委員会HPから引用
いやはや、時代の流れに翻弄され、居場所を追われ、生涯を終える。
今の日本ではそうしたことはまず無いにせよ、「権威」の闘争が起こす波乱というものはいかに激しく苛烈なものか、と思い知らされます。
まぁ、当時のことを知ったわけでもない筆者が、彼らの生きた気持ち代弁できるかと問われれば、”上手く言えない”のですけどね…
さて、明日も頑張っていきます。🐟