教徒、信仰と無償の愛(大島の南に顔を出す筆島-オタイの浦編②-)
令和2年5月10日。
小雨降る日曜日。
今日もゆっくりと家で休んでいます。
まさにSTAY HOMEですね。
さぁ今回は筆島シリーズラスト。
ゆかりのある人物について。
TOPIC No.25-4
「大島の南に顔を出す筆島-オタイの浦編②-」
前回の記事で紹介した「オタイの浦」。
その名付け親である「ジュリアおたあ」について掘り下げます。
この石碑の途中からは「ジュリアおたあ」彼女自身についての説明が書かれていました。
徳川時代(文禄元年)朝鮮侵攻の第一隊長、小西行長により捕らえられた「ジュリアおたあ」は家康の侍女として仕えるが一六一二年四月二十日家康のキリシタン禁教令により「おたあ」にとって最初の流刑地となる当地へと流される。
その後は新島へと移され、更に当時は絶海の孤島と言われた神津島に流されてそこで最後を迎えることとなった。
一七九一年、幕医田村元長とその案内役の平六は薬草採取行の途中、差木地村名主、六右衛門に先ず「ジュリアおたあ」の流刑地・オタイの浦を案内させたと言われている。
(史蹟名勝 オタイの浦 石碑より引用)
つまり、彼女は家康の統治していた時代、朝鮮侵攻の際に日本に連れてこられた外国籍の人であって、禁教令にともなってここに流されてきたということか。
これ、石碑の内容だけ見るとなんでこうなったの?って思うところがあったので個人的に詳しく調べました。
なぜキリシタンに?
⇒彼女を捕えた小西行長がキリシタン大名であり、彼の夫人から教えを受けてキリスト教徒になったから。
なぜ3回も流されているの?
⇒赦免と引換えに家康への恭順の求めを断り続けたから。
また、新島において一種の修道生活に入ったから。など諸説言及あり
なぜ幕医が薬草採取行中、ここに立ち寄った?
⇒彼女は小西家に居る間、家業と関わりの深い薬草の知識にも造詣を深めた者として知られていたから。
こういう経緯があったからこの石碑に書かれているわけなんですね。
怒涛の時代、歴史に翻弄された彼女でしたが、流された先でも、熱心に信仰生活を守り、島民たちに対して献身的に尽くしたそうです。
敬虔な教徒の無償の愛。宗教観を超えて今人々に大切なものかもしれません。
愛はいつも君の中で光るってね。
ついでと言ってはなんですが、近くの祠のようなところに、お祈りをしてみました。
まさか筆島でこんな学びまであると思わず、良い気づきがあってよかったです!
さて、明日も頑張っていきます。🐟
本日のハロプロソング ― Berryz工房「愛はいつも君の中に」